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「私のために説かれたお経 みんなの法話」の版間の差分

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2009年7月29日 (水) 11:44時点における最新版


私のために説かれたお経
本願寺新報2003(平成15)年2月20日号掲載
布教使 井上 慶永(いのうえ けいえい)
伝えることの大変さ

昨年の五月に、北朝鮮の一家五人が中国の日本領事館に入って亡命しようとしたところを、中国の武装警官に捕まえられて連行・拘束されるという事件がありました。
女の子が泣きわめく前で、がんじがらめの母親とおばあちゃんが叫び続けるというショッキングな映像が、毎日のように流れました。

五人家族は、人道的見地から韓国へ行かれて、いちおうの解決をみたようです。
ところが、わが家ではこの事件を通して、ある出来事に遭遇しました。
それは、この事件について子どもたちから質問攻めにあってしまい、どう説明していいか困ったということです。

この出来事を通して、「伝えることの大変さ」を実感したことでした。

今回の出来事のポイントは、「亡命」「人道的見地」「国際法」「治外法権」などの意味を、どのように子どもたちに伝えるかということでした。
小学三年生、二年生、三歳の子どもが全員納得できるような説明は、そう簡単ではありません。

とにかく、あの映像をみた子どもたちは、「どうしたの?」「何が起こったの?」「あの人たちはどうなるの?」「なにか悪いことしたの?」と立て続けの質問です。
小さな女の子が泣き叫ぶ映像にショックを受けたようで、いつになく真剣な表情で聞いてきます。
あーだこーだと言ってみたものの、「それってどういう意味?」と突っ込まれて「それはお母さんに聞いてごらん!」と逃げるのが精いっぱいです。
母親も同様で、結局NHK「週間こどもニュース」を並んで見ました。

私たちは、物事をわかっているようで案外わかっていないものだなあと痛感します。

立場も違い 環境も違う
ニュースを見ている時はわかっているつもりでも、他の人に伝えるときになると、「はて?」となってしまうのです。
多少説明できても、他の表現に言い換えることができないこともあります。
結局、そのニュースのポイントをわかっていなかったのですね。

考えてみれば、われわれの世界は、いろいろな人がいます。
老若男女、立場も違えば環境も違う。
世界に目を向ければ、人種も言葉も価値観も文化も違います。
そんな中で、一つの出来事を一つの表現だけで伝えようということ自体が無理かもしれません。

同じ事実を伝えるにも、ニュース解説のような硬い番組から、ワイドショー、こどもニュースに至るまで、表現方法はさまざまです。
それは、番組によって伝える事実が違うのではなく、ニュースの受け手に合わせて伝え方を変えるということでしょう。
ニュース解説でも、こどもニュースでも伝えるべき事実は一つです。
伝える側からすれば、大人に伝えるより、子どもに伝える方が大変かも知れません。
どうすれば子どもに伝わるかを思いめぐらし、シンプルな表現にありのままの事実をこめる。
本当に多くのご苦労があるのだろうなと思うことです。

わが子救う親の喚び声
世の中に宗教はたくさんありますが、私たちは、お釈迦さまの開かれた仏教こそが真実の道であるといただいています。
ところが、その仏教には、さとりにいたる道を説くお経がたくさんあります。

これは、伝える真実がたくさんあるのではなく、苦悩から開放されるさとりの境地という真実を伝えることについて、相手の立場や個性などに合わせて、その人びとが真実に出遇(あ)えるように多くの道をご用意されたということです。

厳しい戒律を守り、修行を重ねて、「自分さえよければ」という執着心を克服できる人には、そのような方法が説かれたお経があります。
いいことをせよと言われてもいいことができず、悪いことをするなと言われても悪さやまない......そんな者をめあてとした救いを説かれたお経もご用意されているのです。

博学の知識人を対象としたニュース解説もあれば、子どもを対象としたこどもニュースがあるのと似ているような気がします。

ニュースに限らず、なんでもわかっている気でいた私でしたが、自分自身の本当の姿を考えると、思い上がりとはったりで固められた姿に、顔から火がでそうな時があります。
憎しみ、恨み、欲望渦巻くわが姿を思うとき、まさにその者をめあてとしたお経がありました。

あれこれせよとのお指図ではなく、そのままの私を認めた上で、決して見捨てずにさとりの世界、お浄土へと導いて下さる仏さまのことが説かれたお経です。
そして、そこに説かれる仏さまが阿弥陀さまでありました。

阿弥陀さまは、すべてのいのちを南無阿弥陀仏のお念仏ひとつで、必ず救うと誓われました。
誰でもが救われるというのは、決して程度の低い救いという意味ではありません。
むしろ、そうでなければ救われない私の姿を見抜いて下さったからこそ、南無阿弥陀仏というお喚(よ)び声となって、私にいたり届き、寄り添って下さるのです。
まさに、わが子を救うとはたらき続けのまことの親さまでありました。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/