「念仏は無碍(むげ)の一道 みんなの法話」の版間の差分
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念仏は無碍(むげ)の一道
本願寺新報2000(平成12)年7月20日号掲載
川添 泰信(かわそえ たいしん)(龍谷大学教授)
奇異なものが目に
え.秋元 裕美子
昨年四月から今年三月までの一年間、留学のためアメリカ・カリフォルニアのサンフランシスコ近郊で生活をしました。
そのアメリカで私は奇異なモノを発見しました。
それが目に入ってきたときの印象は、本当に奇異なモノという思いしかしませんでした。
その奇異なモノとは、車の中にさげてあった「お守り」です。
正確にいいますと交通安全守護札です。
車を運転していたのは、日本人の二十代後半の女性でした。
日本ではいつも見かける珍しくもない光景でしょうが...。
その意味でいいますと、極めて一般的な日本人のあり方といわなければならないでしょう。
ただアメリカでは、さまざまな標語のステッカーが車の後部のバンパーに張ってあるのをよく見かけましたが、交通安全のお守りを車内に飾っている車は、まず見ることはなかったのです。
それゆえ、私にとってこのような光景が目に入ってきたとき、奇異な感じに映ったのでしょう。
アメリカは、車がないと日常生活が成り立たない社会です。
このような社会の中で生活するためには、やはり車の運転は避けられません。
この女性にとって、外国生活の中で車の事故がないようにと思う気持ちは、極めて当然のことであろうとも思われます。
なぜお守りを飾るか
この女性に限らず、日本では多くの人が車にお守りをしています。
何でお守りをするのでしょうか。
そこで、もう少し、われわれがなぜお守りをするのか、ということについて、その心模様を訪ねてみたいと思います。
最初に考えられるのは、「何も考えることなく、みんながしているから」ということがあげられます。
これは慣習として、ということで、その根底にはお守りに対する、何の考えも思いもない、ということになります。
とすれば、何もお守りでなくても、人形でもリボンでもお花でもよいということになるのではないでしょうか。
でも、やはり人形やリボンやお花ではだめであって、「お守りでなければ」という思いがあるのではないでしょうか。
そうなると、お守りを飾るということは、単なる習慣であって何の思いもない、ということにはなりません。
では、その心の中にある「何か」とはどのような心象風景なのでしょうか。
それは、「漠然とした不安」といったらよいのではないでしょうか。
「人生一寸先は闇だ」といわれるように、私たちが生きていく上において、何が起こるかわからないというのが人の人生です。
このような人生にあって、少しでも悪いことが起こらないように、という思いが、お守りという形になっているということでしょう。
本当の自分に気づく
浄土真宗においても、「極めて素朴には交通安全を願うのであるから、いいじゃないか」とさえ思われます。
果たしてそうでしょうか。
合格祈願も家内安全も含めて、お守りは、阿弥陀仏以外の余他の神さまや仏さまのものであるからだめ、ということなのでしょうか。
それならば阿弥陀仏のお守りならばよい、ということになりますが...。
いうまでもなく、浄土真宗では交通安全のお守りを車に飾るというようなことはしません。
もっといいますと交通安全のお守りのみならず、お守りというものは一切ありません。
なぜないのでしょうか。
そこで、あらためてわれわれ真宗門徒がなぜお守りをしないのか、ということが考えさせられるのです。
それは浄土真宗における仏の救いそのものに関わっています。
浄土真宗における救いとは、真実の自分自身に気づき、念仏以外には自己の往生はないと見定め、そして自然なる浄土に往生するということです。
仏の願いに生きる
ここにおいて「真実の自分自身に気づく」ということは、これは良いことだ、これは悪いことだ、という功利的な個のはからいを超えて生きるということです。
良い悪いの判断は自我執着の世界です。
自我執着の世界である限り、それは自分のみの世界。
交通安全のお守りは、「自分だけは安全でありたい」という人間の自我執着心、功利心の現れではないでしょうか。
そして今一つは、自分自身の人生に自ら不安を抱いているということです。
人生の不安とは、より根源的には「生死」の問題に根ざすものでありましょうが、人間が生きている限り、起こるべきことが起こるのは自然なことです。
そしてその死の不安、生の不安を阿弥陀仏、念仏によって超克するという生き方のところには、「もしかしたら、悪いことが起こるのではないだろうか」ということを防ごうとするお守りは、不必要なものなのです。
このような生き方が、仏の願いをわれわれの願いとして生きていくという、「念仏は無碍(むげ)の一道なり」としての念仏者の生き方なのではないでしょうか。
そして、このような生き方は、不安におびえる生き方ではなく、もっとも力強い堂々とした生き方であるといえるでしょう。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |