「法のいのちとなって みんなの法話」の版間の差分
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法のいのちとなって
本願寺新報2007(平成19)年7月1日号掲載
布教使 吉田 俊宣(よしだ しゅんせん)
お浄土への人生を歩む
「千の風になって」という歌が大ヒットしています。
作者不詳の英語詩を、新井満さんが日本語に訳して美しいメロディをつけて、最愛の妻を亡くした友人に贈った曲だと聞いています。
その後、テノール歌手の秋川雅史さんもこの曲をレコーディングされ、美しい歌声が全国のテレビやラジオから流れています。
大切な人を亡くされた方は、とても心が癒され、素直にうなずけるとおっしゃいます。
私もことしの五月十二日に、前坊守である母を八十七歳で亡くしました。
昨年四月、脳こうそくで倒れて半年入院しましたが、嚥下(えんげ)障害のため、退院に際し胃に直接注入食を流し込む胃瘻(いろう)の手術を受け、七ヶ月半家族と共に生き抜いてくれました。
葬儀のあと、お世話になった方にお礼のはがきを出しました。
「五月の風に早苗がそよいでいます。
当山前坊守 法名釈信貞は、皆さまのご厚情に支えられて、お念仏の薫風のなか八十七年の生涯をお浄土へと生き抜きました。
(中略)寂しくなりましたが、南無阿弥陀仏のはたらきによってお浄土に生まれたものは、法のいのちとなって速やかに還(かえ)り来たりて衆生を導きたもうと示されますので、私たちもまた安心してお浄土への人生を力強く歩ませていただきます・・・」
混迷深まり法は聞かず
誠にお念仏のなかを安心して、いただいたいのちいっぱいを生きてくれたこと、何よりもうれしく、感謝申し上げたことでした。
今、「お浄土」とか「仏さま」という言葉がたいへん伝わりにくくなってきました。
それに伴って、「混迷」という字が現代を表す言葉としてよく使われるようになったように思います。
混とんとして訳のわからないこと、混乱して見通しのつかないこと、と辞書に見えます。
永遠なるものを見失って、相対的な価値に振り回されている、と少々難しい表現をされる方もありますが、ひと言で言えば、「おみ法(のり)を聞かなくなった」ということではないでしょうか。
親鸞聖人は「正像未和讚」のはじめに、
<pclass="cap2">弥陀の本願信ずべし
本願信ずる人はみな
摂取不捨(せっしゅふしゃ)の利益(りやく)にて
無上覚(むじょうかく)をばさとるなり
(註釈版聖典600ページ)と詠(うた)われました。
「信ずべし」というと命令形のようですが、「信じなさい」ということではなく「気づきましょう」ということでしょう。
おみ法のご縁の篤(あつ)い人も薄(うす)い人も、仏法が大好きな人も大嫌いな人も、みんなみんな阿弥陀如来の本願の世界のなかに生かされています。
その事実に目ざめましょうと、いのちの意味と方向性を知った喜びをお伝えくださったのです。
立ち上がり救いの姿を
仏さまというと大抵はお姿(仏像)を思い浮かべます。
しかし、あのお姿は仏さまのさとりのはたらきをあらわしたものですから、仏さまとは、いのちあるものを目ざめさせ本当のいのちを歩ませようと、一切をつつみはたらきかけている真実=法であります。
私たちにはさとりがわかりませんから、深い迷いも知りも得ず、ますます迷いに沈んでいくばかりです。
迷いを迷いとも知らず迷っている私がいるから、立ち上がって救いのはたらきを示してくださるお姿が方便法身(ほっしん)の阿弥陀如来であり、朝夕お礼を申し上げるご本尊は、さとりの世界に安らいでいることができず、名号となって私を喚(よ)び通しのおはたらきそのものなのです。
いのちに生から死までの枠をはめ、限りあるいのちと握りしめ怯(おび)えている迷いの私。
だから「マカセヨスクウ」と喚んでくださる声が南無阿弥陀仏なのです。
阿弥陀如来の本願に喚ばれているいのちを素直に聞くとき、限りなき浄土への歩みが始まります。
それはまた浄土から照らされて今ここを生きる、本願に生かされている大きないのちの気づきです。
私という小さな世界から「みな共に」の広い世界へ、好き嫌い、勝った負けた、損した得した、の打算の人生から、それぞれのいのちを尊重してお浄土への確かな今日を生きる真実の人生への方向転換。
「オマカセシマス」と本願にうなずく声もまた南無阿弥陀仏であります。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |