「本当の〝豊かな老後〟とは みんなの法話」の版間の差分
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本当の〝豊かな老後〟とは
本願寺新報2003(平成15)年1月1日号掲載
仁愛大学学長 石田 慶和(いしだ けいわ)
人生は夢幻の如し
花鳥(はなとり)もおもへば夢の一字かな
これは、江戸時代の俳人・夏目成美(1749~1816)という人の句ですが、短い言葉の中に、深い思いがこもっているように感じます。
この句を見て、私たちがすぐ思いだすのは、本願寺中興の祖・第八代蓮如上人がしたためられた『御文章(ごぶんしょう)』の次の一節です。
「それ、秋も去り春も去りて、年月を送ること、昨日も過ぎ今日も過ぐ。
いつのまにかは年老のつもるらんともおぼえずしらざりき。
しかるにそのうちには、さりとも、あるいは花鳥風月のあそびにもまじはりつらん。
また歓楽苦痛の悲喜にもあひはんべりつらんなれども、いまにそれともおもひいだすこととてはひとつもなし。
ただいたづらに明かし、いたづらに暮して、老の白髪となりはてぬる身のありさまこそかなしけれ。
されども今日までは無常のはげしき風にもさそはれずして、わが身ありがほの体(てい)をつらつら案ずるに、ただ夢のごとし、幻のごとし」(註釈版聖典・1166頁)
― 秋もさり、春もさって、年月がたち、いつのまにともしらぬうちに、老いの身となってしまった。
そのうちには、風流な遊びをしたり、悲しいことや苦しいこともあっただろうが、今はこれといって思い出すこともなく、ただむなしく暮らして老いてしまったのは悲しいことだ。
今日までは無常の風にもさそわれず、なんとか生きながらえたのだが、それも夢まぼろしのようだ―
蓮如上人は、このように来し方をふりかえっていらっしゃいます。
まことに痛切に、今日までの日々を省み、思いだすこととてはひとつもなく、空しく過ごしたことが、嘆(なげ)かれているのです。
宗教的世界への関心
実際は、蓮如上人は、第八代をご継職のあと、比叡山の徒に東山の本願寺をこわされ、近江から北陸、さらには大坂へと、席のあたたまるひまもなく東奔西走され、ようやく山科に本願寺を建立されたのですが、そういうことも、この『御文章』では、「いまにそれともおもひいだすこととてはひとつもなし」という感慨として記されています。
上人のお気持ちのなかでは、この世のことはすべて、「ただいたづらに明かし、いたづらに暮し」たということなのでしょうか。
こういう言葉は、無常詠嘆といって、積極的な生き方ではないと非難されることが多いのですが、蓮如上人のお気持ちは、ただ無常を嘆き悲しむということではなく、このあとに、「いまにおいては、生死出離(しょうじしゅつり)の一道ならでは、ねがふべきかたとてはひとつもなく、またふたつもなし」とあるように、こうした感懐を、ただちに宗教的関心につなげてゆこうとされているのです。
しかし、今日では、私たちの関心は、宗教的な方向に向くことはほとんどありません。
生きることがすべてで、それを否定することからは、できるだけ目を逸らそうとします。
波瀾万丈の生活でさえ、この世のことは「夢のごとし、幻のごとし」と言いきられる蓮如上人のお言葉とは全く反対に、現世のことに最高の価値を求めてやまない私たちには、こうした徹底した現世否定の精神はどういう意味をもつのでしょうか。
あっというまに高齢者の社会になってしまいました。
少子高齢というのは、現代社会の特色です。
そこで、高齢者は満たされた生活をしているのでしょうか。
「豊かな老後」というのは、世間で繰り返される言葉ですが、本当に満たされた老人の生活が実現しているのでしょうか。
むしろ不安と幻滅の老後が待っているような気がします。
それは、社会福祉政策がどうとか、医療体制がどうとかといった問題ではないように思います。
その根本には、現代の人間が喪失した宗教的関心という問題があるのではないでしょうか。
老少男女問わず、すべての人たちの心を本当に支えるのは、宗教的世界への関心です。
宗教的要求といってもよいでしょう。
妙好人(みょうこうにん)たちの生き様
深い念仏信仰に生きた人々を「妙好人」と申しますが、すぐれた妙好人たちが、どれほど豊かな老後をおくっていたかは、『妙好人伝』からもうかがい知ることができます。
『妙好人伝』には江戸時代の考え方が反映されています。
しかし、妙好人たちを生かしていたのは、決してご領主さまのおほめの言葉や、頂戴した金子(きんす)などではなく、つねにわが身に語りかける仏さまの慈悲の喚(よ)び声だったのです。
南無阿弥陀仏をとなふれば
十方無量の諸仏は
百重千重囲繞(いにょう)して
よろこびまもりたまふなり
(同576頁)
という親鸞聖人のご和讃は、そういう妙好人の気持ちをよくあらわしていると申せましょう。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |