「生きる方向 みんなの法話」の版間の差分
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生きる方向
本願寺新報2003(平成15)年7月20日号掲載
京都女子高校教諭 小池 秀章(こいけひであき)
カーナビが目的地まで
「あなたは、今、どこに向かって生きていますか?」
そう問いかけられると、ドキッとしませんか。
「私は、○○に向かって生きています」と、はっきり答えられますか。
また、日本はどこに向かっているのでしょう。
世界は? そんなことを考えると、私は不安になります。
私の車には、カーナビ(カーナビゲーション)がついています。
カーナビというのは、車を目的地まで案内してくれる機械のことで、画面には地図が表示されていて、今、自分がどこにいるか示してくれています。
そして、目的地をセットすれば、そこに行くまでの道順を表示してくれます。
しかも、その画面上の地図を見ながら運転すると危ないので、曲がらなければならない交差点に近づくと、「次の交差点を右に曲がります」というように、機械がしゃべって、私の進むべき方向を教えてくれるのです。
さらには、目的地までの距離を計算して、到着予想時刻まで表示してくれるのです。
これは、とても便利なもので、知らない土地にいっても、機械の言う通りに運転すればちゃんと目的地に着きます。
すべての命が輝く世界
ところが、機械には限界があって、細い田舎道になると、どの道を走っているのか判断できないようなのです。
そんな時、機械がどう反応するかといえば、これがまたうまく出来ていて、到着予想時刻を示してくれていた時計が消えて、その代わりに目的地の方向を示す矢印が現れるのです。
これには感動しました。
方向さえわかっていれば、少々迷ったとしても、何とか目的地に到着することができるのですから。
人生もこれと同じで、方向さえわかっていれば、回り道をしようが、何とかなるものです。
人生において、生きる方向を定めるということは、とても大切なことなのです。
浄土真宗では、「お浄土に向かって生きるのですよ」と、お浄土という私の生きる方向をはっきりと示して下さっています。
お浄土とは、煩悩の汚れのない浄らかなさとりの世界のことで、愛憎を超え、すべてのいのちが、かけがえのない尊いものとして光り輝く世界です。
このようなお浄土を目指して生きるということは、自己中心の心から離れられず、自分にとって都合のいいものをむさぼり求め(愛)、都合の悪いものを排除し(憎)、他人を傷つけ、自分をも傷つけて生きている私のあり方を常に見つめながら生きるということなのです。
お浄土という真実の世界に触れて初めて、自己の嘘(うそ)偽(いつわ)りが見えてくるのです。
ですから、本当の意味で、自分の自己中心の心が見えている人は、すでにそれを超えた真実の世界に触れている人なのです。
お念仏は仏のよび声
浅田正作さんという方が、「回心(えしん)」という詩を書かれています。
<pclass="cap2">自分が可愛い
ただ それだけのことで
生きていた
それが 深い悲しみとなった時
ちがった世界が
ひらけて来た
自己中心の心に振り回されて生きていてはダメだと言われても、それをやめることが出来ないのが私たちなのです。
しかし、それが深い悲しみとなった時、そこには、ちがった世界が開けてくるのです。
単に自己中心の心に振り回される生き方ではなく、そういうあり方を恥ずかしいことだと受け止めて生きる中で、少しずつお育てにあうのです。
また、さらに言えば、お浄土というさとりの世界から、常に私によびかけ、真実の世界へと導いて下さる喚(よ)び声が南無阿弥陀仏のお念仏なのです。
ですから、お念仏に生きるということは、お念仏の声に育てられながら、お浄土へ向かう人生を歩ませてもらうということなのです。
お念仏によって、生きる方向をしっかりと見定めていきたいものです。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |