「命日はバースデー みんなの法話」の版間の差分
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命日はバースデー
本願寺新報2005(平成17)年10月10日号掲載
布教使 朝枝 俊円(あさえだ しゅんえん)
お誕生日はめでたいか
今月十月は、私の誕生日に当たります。
誕生日には、わが家でもささやかながら誕生祝いをします。
しかし、「お誕生日おめでとう」とお祝いする時、そこに重大な責任があるように私は思います。
私の住んでいる地域は、大変な過疎地です。
それは極端な言い方をすれば、「こんな土地では生きていけない」と、そこに住んでいた人たちから見捨てられた地域ということになります。
都会では「田舎暮し」がブームだそうですが、どこ吹く風です。
その、皆から見捨てられた地域に子どもたちが生まれました。
「どうしてこんな田舎に生まれてきたのか」と言われてしまいそうです。
けれども、「それでも、この地に生まれて良かったね」「それでも、わが家の一員になってくれて、ありがとう」ということが言えなければ、「誕生日おめでとう」などとは軽々しく言えるものではないでしょう。
つまり、お祝いする側のものが、どんなに愚痴(ぐち)のこぼれそうなところであっても、それを超えて、生まれてきたことを、今ここに生きているということを本当に喜ぶことができなければ、誕生ということをお祝いできるものではないと思うのです。
大きな親のおなかの中
<pclass="cap2">ありがたいな
腹の中で
ものを言う
わしの親さま
大きな親で
娑婆(しゃば)は親の腹
生まれる里は
親の里
と、妙好人・浅原才市(さいち)さんが詠(うた)っています。
才市さんは「娑婆は親の腹」。
「人生苦なり」といわれるこの娑婆世界が、如来さまのお腹(なか)の中だとおっしゃいます。
先日、臨月を間近に迎えるご夫婦にお会いしました。
もうお腹の赤ちゃんが動くのです。
突然、「けったけった」「動いた動いた」とお母さんが言うと、お父さんは人目もはばからず、お腹をさすって満面の笑みです。
お母さんもお父さんも、赤ちゃんが元気に育っているのを喜んでおられるのです。
それは「生まれてくるのが待ち遠しくって、楽しみで楽しみでしょうがない」といった、うれしさいっぱいの光景でした。
けれども、わが子とはいえ、子どもにけっとばされて親が喜んでいるというのは、長い人生の中でもこの時期だけですね。
私の息子は、私より背丈も高くなりました。
今けっとばされたら、とても喜んでなどいられないでしょう。
生れるのは如来の世界
しかし今、親はけっとばされて喜んでいるのです。
時には胎動して頭突きを食らわす。
けれども、それが親の喜びの種なのです。
なぜなら、それが赤ちゃんの生きている証(あかし)にほかならないからです。
私たちも今、如来さまのお腹の中にいるのです。
そしてまた、如来さまのお腹をけっとばしています。
愚痴をこぼしてはけっとばす。
欲を起こしては頭突きを食らわす。
人生八十年とすれば、妊娠期間はとても長い上に、それが、そのあいだ中です。
けれども、如来さまはそのあいだ中、「けったけった」「動いた動いた」と、煩悩だらけのわが子を心からふびんに思い、慈愛の心を注ぎ続け、はぐくんでいてくださいます。
私たちがけっとばしたところを、頭突きを食らわしたところをやさしくなでながら...。
愚痴や貪(むさぼ)り、そして怒り。
そのような煩悩が限りなく湧き起こってくるこの私。
しかし、それが私たちが生きている証でもあるからです。
そんな人生を終える時、「生まれる里は、親の里」と、才市さんはおっしゃいます。
如来さまのお慈悲いっぱいに育てられ、はぐくまれたからこそ、その私たちが生まれ出てゆくところは、如来さまの世界だと味わっておられるのです。
如来さまのお腹に宿ったのだからこそ、如来さまの世界に、如来さまと同じさとりの仏として生まれさせていただくのですね。
娑婆のご縁の尽きた時、まさしくお浄土の誕生日を迎えるのです。
であればこそ、その時もまた、「お誕生日おめでとう」とお祝いしてもらいたいものだと思います。
如来さまのお腹で生きる人生を恵まれたならば、たとえどのような環境であろうとも、心から「お誕生日おめでとう」と言えるのです。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |