「ほんとうの"なるほど" みんなの法話」の版間の差分
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ほんとうの"なるほど"
本願寺新報2006(平成18)年6月1日号掲載
教学伝道研究センター研究員 高田 文英(たかだ ぶんえい)
"なるほど"も難しい!?
「なるほどなるほど」
これは私の口癖のようです。
あまり意識していなかったのですが、勤務先の同僚や先輩に言われて、「そういえば言ってるなぁ、なるほどなるほど!」。
困ったことに「お前のなるほどは、気持ちが入ってないなぁ」「興味なさそうななるほどだなぁ」とも言われることがあります。
言い訳かもしれませんが、自分なりに私の「なるほど」を分析してみますと、おそらく人の話はちゃんと聞かないといけない、という意識があって、でも相手の話の内容があまり自分と接点がないと、どうしても上滑りした声の響きになってしまうのだと思います。
だったら「その話は僕はよく知りません」「あまり興味がないよ」と正直に言ったほうがよいのかもしれません。
でもなんとなく相手に悪いような気がして、その結果出てくるのが「なるほどなるほど」なのです。
こんなことを書くと、これからの人生で「なるほど」が言いにくくなってしまいそうですね。
一応弁解しておきますと、たいていの「なるほど」には、それなりの気持ちが入っていますので...。
「なるほど」は、相手の主張や思いを認めて、肯定する言葉です。
誰でも自分のことを認めてもらったり、肯定してもらったら嬉(うれ)しいはずです。
でも、私が注意されたように、安易に連発すればいいというものでもないようです。
今のままの自分認めて
「この人は私の言っていることをちゃんと理解して認めてくれているわけではないようだぞ。
そもそも私に興味がないんじゃないか?」
こんなふうに受け取られたら、逆に印象を悪くしてしまうでしょう。
私たちは、ただ自分のことが否定されていなければそれでよい、というわけではなく、私のことをちゃんと内面までよく知った上で、その私を肯定してもらいたいのです。
ある歴史学者の方が、著書の「あとがき」を、こんな言葉で結ばれているのを目にしました。
「この書を先生の仏前に捧げるが、先生からどうお叱りを受けるか、それが心配である」
長い苦労の末に書き上げた著書を、この方が一番に誰に見てもらいたかったのか、誰に認めてもらいたかったのかが、短い一文のなかから伝わってくるように思いました。
自分のことを導き、ずっと成長を見守ってくれた人、誰より自分のことをよく知り、思ってくれた人から認めてもらいたい。
そう思うことは、この方だけではなく、私たちの自然な心情というものでしょう。
また、ある精神科の先生は、人間は母親に自分を認めてもらいたいと思っている。
母親が「今のままの自分」を認めているとわかったとき、若者は後顧の憂いなく安心して前進する力をもつ。
母親が「今のままの自分」を認めないとき、「勉強したら認める」「成功したら認める」という条件つきのとき、子どもは不快で不安で前に進む事ができない、と書いておられました。
それはきっと、私たちが母親のことを、自分のことを一番よくわかってくれている存在であると、本能的に感じているからではないでしょうか。
そういう人にありのままの自分を認めてもらっているとき、私たちは深い安心を感じるのでありましょう。
極大慈悲母の如来さま
七高層のお一人・源信和尚は、阿弥陀さまのことを「極大(ごくだい)慈悲母(も)」、すなわち「広く大いなる慈悲の心を持つ母」(現代語版『教行信証』105ページ)であるとお示しくださっています。
阿弥陀さまはまるで母親のようである、というのです。
私たちがどんな人生を歩んできたのか、どんな内面や問題を抱えているのか、母親のようにちゃんと見抜いてわかっておられる方であるというのです。
こんな仏さまに、私たちは、「なるほどなるほど」とありのままの自分を認めていただき、「そんなあなたを決して捨てはしませんよ」とよびかけていただいているのでした。
だから心配はご無用。
私たちは温かなお慈悲に見守られて、すっかり安心させていただくんですね。
なるほどなるほど!
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |