操作

「自分の視点を見直す みんなの法話」の版間の差分

提供: Book

 
(1 版)
 
(相違点なし)

2009年7月29日 (水) 11:14時点における最新版


自分の視点を見直す
本願寺新報2007(平成19)年3月1日号掲載
心理カウンセラー 羽田 高秀(はねだ たかひで)
立場違えば見方も変化

「視点」という文字を見ますと、視覚の「視」が入っていますが、視点という言葉をみなさんが実際に使われる場合、多くは視線の持っていく場所という意味ではないですね。
「自分のものの見方(感じ方)や考え方の立場」という意味で使われていると思います。

「視点」という言葉には、「見方・感じ方・考え方」と「立場」の二つの意味が含まれています。
例えば、茶筒のような円筒状のものを想像してください。
それを真上から見ると円に見えます。
そして、真横から見ると長方形に見えます。
真上か真横かというのが「立場」で、それを見たときに起こる感情や行動が、見たものに対する感じ方や考え方になります。

普通は立場というものはあまり問題にはならないのですが、長い間同じ立場でものを見ていると、それがあたかも自分の本来の立場であるように錯覚してしまいます。
ところが、その立場が変化したときに、相手の反応が異なり驚くことがあります。
職場での配置転換、転職、定年退職、結婚、離婚、何か新しい役につく、などでそういうことが起きてきます。
そして、その立場が自分そのもののように思えてしまうのです。

見方・感じ方・考え方は、その人がそれまで生きてきた中で蓄積されてきた経験と、本来持ち合わせている性質がいり混じって成り立っています。
「立場」と「見方・感じ方・考え方」が一つになって「視点」になるのです。

同じ人でも、例えば会社の社長でいるときと、お寺にお参りするときとでは、「見方・感じ方・考え方」が同じでも、「立場」が違うので、「視点」が違ってくるわけです。

自分の考え主張すると
自分の視点が、人とどれだけ異なっているのかということを考えてみたことがありますか?さらに、その視点がなぜそんな視点になっているんだろうかということを考えてみたことがありますか?

大きな事件が新聞やテレビで報道されると、しばらくの間は、みなさんの世間話や茶の間の話題に上がってきます。
普通そういう世間話程度では、相手とどこか感じ方や見方が異なっても、あまり自分の視点を強く主張することはないと思います。

しかし、お互いの視点があまりにもずれていると、腹立たしく感じたり、いやな感じを受けたりすると思います。
さらに、相手の人格に対する見方までが変化してしまうこともあります。

そして、相手の視点と自分の視点との違いに気づかず、ただただ、自分の見方、考え方を主張し、あげくの果てには言い争いになり、ひどいときには殴りあいのケンカになる場合さえあります。

夜空の星を見る時も、天文学者は、天文学者の視点で、その星の温度や距離、大きさなどを見ます。
太平洋を航海している人は、航海士の視点で、星の位置を自分の位置として見ます。
その星が毎晩輝いているのに見ない人もいます。
その星が見えなくっても想像できる人もいます。

強い勧めで映画を見る
先日、私は「不都合な真実」という映画を見ました。
アメリカ元副大統領のゴアさんが全世界を飛び回り、千回以上スライドを使った講演をされて、それが本になり、映画になったものです。
私はこの映画のことは、題名は知っていましたが、内容はあまり知りませんでした。
友人からぜひ見ておいた方が良いと言われて、ひきずられるように見に行きました。

この映画を見て、自分の生き方を変えなければならないと感じました。

映画を薦められるまでは「『地球温暖化』のことを訴えている映画だろう。
ああ、わかってるよ」と、自分の視点を変えずにその映画の名前や噂だけで行動していました。
今回は友人の強い勧めによって、視点を変えさせてもらったわけです。

自分の視点をもう一度よく見直してみる。
それによってさまざまな気づきを得ることができます。
親鸞聖人やお釈迦さま、さまざまな人生経験を重ねてきた方々の言葉を聴いたとき、「はっ」とさせられることがあります。
これは、自分の視点がどのようなものであったかということが、知らされる瞬間なのでしょうね。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/