「法に生きる人 みんなの法話」の版間の差分
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法に生きる人
本願寺新報2008(平成20)年1月20日号掲載
京都・願生寺住職 山本 泉茂(やまもと せんも)
いつも聞法していた母
最近、「どうしたら次代に仏法を伝えられるか?」ということをよく耳にします。
お寺でも後継者問題がありますし、ご門徒のお宅においても核家族化などがその障害となっています。
もちろんマニュアル化された答えなどありません。
そんな時、私はいつも母のことを思います。
私が僧侶になったのは平安高校二年、十六歳の夏でした。
私の生家はお寺ではなく商売を営んでいて、父の宗教も、お念仏には批判的な宗派でした。
しかし、母の影響で、私を含め兄弟四人全員が僧侶になったのです。
母は浄土真宗のお寺に生まれ育ち、縁あって父と結婚しましたが、浄土真宗のみ教えに生かされる生活は変わりませんでした。
私自身は「僧侶になって」と母から言われた覚えはありません。
他の兄たちもそうだったと思います。
ただ、今思えば、食器を洗う時も、伝票の整理の時も、洗濯物を干す時も、草抜きの時も、車を運転している時も、常に法話を聞いていました。
いつもお聴聞しながらの日暮らしでした。
そして、み仏さまから「念(おも)われ人」として生き抜かせていただく姿勢は、今も変わりません。
その事1つを遺(のこ)したい
私が僧侶になる二カ月前のことでした。
一学期の中間試験で勉強中の深夜、母が私たちのためにジュースをとりに一階まで下りてくれました。
その時、ガタ、ゴトーン、ゴトーンという大きな音がしました。
母が階段から落ちた音とすぐにわかりました。
急に立ちくらみがして、十九段の階段を転げ落ちたのです。
階段の下はコンクリートでした。
落ちればどうなるかは想像に難くありません。
兄と階段の上から見てビックリしました。
つい今まで話していた母が、変わり果てた姿になっていました。
右手首から骨が五センチほど皮膚を破って突き出ていました。
白目をむき、頭蓋骨も骨折し、頭から流れる血は見る見るうちに広がり、ついには私の素足に生あたたかい血が流れつきました。
私はすぐに救急車を呼びました。
兄は父や他の兄を起こしに行きました。
到着した救急隊員の方が母の意識を確認するため、「名前は?」「今日は何日ですか?」と何度も尋ねるのですが、意識不明の母から返事はありません。
救急車に運ばれてからも「名前は?」「今日は何日ですか?」と繰り返しますが、反応がありません。
ところが救急車に乗ってしばらくした時、母が何やら口を動かしたのです。
それに気付いた私は「お母ちゃん何や!」「言いたいことあるんか!」と聞きました。
救急隊員も「名前は?」「今日は何日ですか?」と尋ねました。
すると、大きいサイレンの中で、乾いたタオルを絞るような声で母が言った言葉は・・・
「よしぼー(長兄)・・・お念仏やで・・・」「よしぼー・・・お念仏を依りどころに・・・兄弟仲良くしてや・・・」自分の名を遺(のこ)すことより「南無阿弥陀仏」のみ名を子どもたちに遺すことの方が、母にとっては大切だったのです。
「その事一つを遺したい。
」それが母の願いであることに気付かされたのです。
仏法は、それを覚え知った人から伝わるのではなく、法に生きた人から伝わるということを、母から教えられたように思います。
私を離せぬみ仏の大悲
親鸞聖人の主著『教校信証』に「もし人(ひと)一(ひと)たび安楽浄土に生(しょう)ずれば、後(のち)の時に意(こころ)に三界(さんがい)に生れて衆生(しゅじょう)を教化(きょうけ)せんと願(がん)じて、浄土の命を捨てて願に随(したが)ひて生(しょう)を得て」(註釈版聖典309ページ)とあります。
難しい言葉ですが、浄土に生まれたお方は、私の苦の世界を平気で見過ごすことができず、浄土にとどまることなく、私の煩悩の中に生き続けられるということでしょう。
私たち人間は、そのような世界から逃げることばかりを考えていますが、み仏は苦毒(くどく)の中にこそ生きられるのです。
まさしくお慈悲の現場は、ほかならぬこの「私」であったのです。
み仏は浄土のいのちを捨ててまで、私に全存在をかけて生き続けられていたのですね。
私のいのちはそのようないのちであったのです。
み仏は「生死(しょうじ)の苦海(くかい)」に沈(しず)む私を、煩悩だらけのこの私を離さないのです。
離せないのです。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |