「濁世の目足(もくそく) みんなの法話」の版間の差分
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2009年7月29日 (水) 11:14時点における最新版
濁世の目足(もくそく)
本願寺新報2008(平成20)年8月20日号掲載
福岡・明徳寺住職 種田 明乗(たねだ みょうじょう)
玄界灘の沖ノ島に・・・
最近、ツバメの数が減ってきたような気がします。
かつて梅雨時の法座では、本堂の入り口や窓に防鳥ネットを垂らしたものですが、最近ではそんな必要もなくなりました。
ツバメは前年に巣をかけた所に戻ってくると聞きますが、ツバメやサケなどには人間よりはるかにすぐれた記憶力でもあるのでしょうか...。
ところで、「おきのしま」という名前の島は全国にいくつもあるそうですが、玄界灘のまっただ中(福岡県宗像市)に浮かぶ周囲4キロの無人島「沖ノ島」もその一つです。
天然記念物の原始林が繁(しげ)るこの孤島に、渡り鳥の海鳥・オオミズナギドリが毎年やってきます。
親鳥はこの島で産卵し、ヒナを育てるのですが、ヒナが成長し自分でエサをとれるようになると、ヒナを残したまま南へ飛び立ってしまうそうです。
残されたヒナは一体どうなるのでしょう?
ヒナはそのまま島に居続け、やがて飛び立てるまでに成長すると、親に遅れること数週間、親同様に南へ飛び立って行きます。
不思議な話だと思いませんか。
ツバメやサケのように、もともといたところに帰るというならまだしも、沖ノ島で生まれ育ち、今まで1度も行った経験もないのに皆、南へ向かっていくとは...。
ツバメやサケもそうですが、生き物の命の営みには、何かその個体の意思や能力をはるかに超えた大きな力がはたらいているように思えてなりません。
私たち人間もまた、私たち自身にははかり知ることのできない大きなはたらきの中に生かされているのでしょう。
親鸞聖人のお言葉に「『自然(じねん)』といふは、もとよりしからしむる」(もとよりそのようにあらしめる)とありますが、仏さまのお救いのはたらきこそまさに、人間の思いはからいを超越した世界であるとお示しになっています。
この直線はどこを指す?
最近のことですが、所用で娘の車を借りることになりました。
カーナビゲーションの付いている便利な車でしたが、行き慣れた所でしたので、その道案内に頼ることなく、往きは音楽を聴きながらの快適なドライブでした。
ところが帰途のこと、往き同様に音楽を聞こうと何気なくカーナビを操作すると突然音楽が止まり、道案内の画面に変わってしまいました。
パソコンや携帯にも無縁の私には、最新機器の操作は手に負えなくてスイッチを切ることもままならず、結局そのまま運転を続けました。
幸いカーナビの案内と自分の運転方向が合っていてじゃまにはなりませんでした。
見るともなく時々画面に目をやると、走っている自分の車から常に直線が1本画面の外に向かってのびているのに気付きました。
何だろう? 東とか西とか一定方向を指しているのかと思いましたが、どうも違うようです。
意味がわからぬまま、気になりつつ走っているうちに、いよいよわが家が近づいてきました。
するとこれまで画面の外にはみ出していた直線の端が画面の中に入ってきました。
驚いたことに車からのびた直線はなんとゴール(設定済みだったわが家)と結ばれていたのです。
つまり、車がどこを走っていようとも、常に車と目的地とを線で結び、この方向に進めば迷わず目的地に着けると教えてくれていたのです。
私とお浄土つなぐ大道
源信和尚(かしょう)は、仏さまのみ教えは「濁世(じょくせ)末代の目足(もくそく)」と示されました。
仏さまの教えが、私たち凡夫の進むべき道を示し、進む力となるとおっしゃいました。
「もとよりしからしむる」という仏さまのはたらきは、私の命の営みの行く先は、決して暗闇ではなく、お浄土であると示されます。
道に迷い、常に仏さまに背を向けて生きようとする私に、あたかも車と目的地を結ぶ直線のごとく、私とお浄土とをつなぐ大道として届けられていたのがお念仏(名号)でありましょう。
「なんまんだぶ なんまんだぶ」―お念仏申せる身にお育ていただいたことを喜び、いつでもどこでも仏さまと2人連れの人生を1日1日大切にしたいものです。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |