「確かな後ろ盾 みんなの法話」の版間の差分
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確かな後ろ盾
本願寺新報2008(平成20)年12月1日号掲載新潟・光源寺住職 清水 正朋(しみず しょうほう)
迷う者をさとりに導く
阿弥陀さまは、お慈悲の仏さまです。
お慈悲とは、他人の痛みを我が痛みとする心であるといわれています。
私たちの知る痛みは、自分の身体の上に限られていますが、阿弥陀さまは、自分と他人といった垣根を超越された、おさとりの仏さまです。
私たちの抱えている苦悩を、ご自身の痛みとなさるお方であるといわれています。
痛みが深ければ深いほど、痛いところに手を差し伸べずにはおれないように、「お前を救わずにはおれない」と、いつも私たちにはたらきかけてくださっているのが、阿弥陀さまなのです。
私たちは、まことに思い通りにならない苦悩を抱えて生きています。
例えば、老いを止めることができません。
病を避けることもままなりません。
生きたいと思っても、必ずいつかいのち終えてゆかなければならない身です。
仏さまとは、迷いを離れたおさとりのお方であると同時に、一切の迷える人々をさとりに導くお方でもあります。
私たちを深い深い迷いの者とお見抜きになり、迷いからさとりへ、救い導くお慈悲のはたらきを仏さまと申し上げるのです。
巨大迷路にチャレンジ
もとより、さとりをきわめたお方でなければ、人をさとりに導くことはできません。
以前、子どもを連れて遊園地に遊びに行ったことがありました。
そこには巨大な迷路のアトラクションがあり、スタートからゴールまで、平均して40分の時間がかかると説明を受けました。
しかし、平均時間を大きくオーバーしても、ゴールできないチャレンジャーのために、高台から誘導することができるようになっていました。
高台からは、迷路の全体が見渡せるようになっていて、チャレンジャーが進もうとしている先が行き止まりであるかどうかや、現在チャレンジャーがコース全体のどの位置にいるのかを、高台の上の誘導者は知ることができます。
ですので適切な誘導ができるのです。
この適切で確かな誘導の声を聞くと、チャレンジャーは安心します。
この巨大迷路のアトラクションに自分自身がチャレンジしてみて、迷いから抜け出す確かな道は、迷いを離れた世界から導かれなければ難しいと、あらためて味わったことでした。
南無阿弥陀仏の大船
しかし、阿弥陀さまは、遠く離れたところから救い導くお方ではありません。
親鸞さまは、阿弥陀さまの救いのはたらきを、「舟(ふね)」という乗物に譬(たと)えてお聞かせくださいました。
船のたとえは、阿弥陀さまのお救いが私たちと離れていないことを表しています。
阿弥陀さまにたとえられる船は、航路の定まっている大きな船舶を想定されているようです。
船は、浮く力も、進む力も、目的地までの航路も、全(すべ)て船の受け持つはたらきです。
ですので船上では、泳げる人も泳げない人も、平等に船の進む先へ共に運ばれます。
船の進む先は、南無阿弥陀仏と同じおさとりの境地です。
私たちの生活は、安らぎを求めての日暮しであるといっても過言ではないと思います。
そしてその安らぎは、漠然とですけれども、競争社会を勝ち進んだその先に、きっとあると信じて疑わないのが私たちであるように思います。
しかし阿弥陀さまは、「競争の先には安らぎはないぞ、真(まこと)の安らぎはさとりに到(いた)ることをおいてほかにない。
弥陀にまかせよ、必ず救う」と、この私から離れることなく寄り添っていてくださるのです。
これからも生きていく上で、いろんな苦難に遭(あ)ってゆかねばなりませんが、一人にしない確かなお慈悲のみ手の中にある私でありました。
親の手からはぐれた迷子は、親の姿を探します。
張り詰めた緊張の中で、ようやく親の姿を見つけたとき、子どもは声を上げて泣き出します。
それはもう張り詰める緊張に用事のいらない安らぎを得たからでありましょう。
厳しい現実を生きる私たちの後ろ盾は、確かな南無阿弥陀仏の親さまでありました。
出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |