聴聞は他人ごとを自分のことだと教えてくれる
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「対岸の火事」という言い伝えがあります。自分の家や、自分の近くに火事があれば、それはそれはあわてふためくでしょうが、川の向こう側の火事は、痛くもかゆくもない、むしろ、花火でも見るようにただ眺めている、ということを言いあてたのであります。
人間は、炎が身にかからないと、何事も他人ごとにしてしまう習性があるのでしょうか。
重ねて話を引きだすようですが、今年も学生時代の同期の会がありました。
近年は会うごとに同期の者が、亡くなる数が増えてきます。ただ、出席者が同伴が多くなるので、総計としては影響がない、と幹事さんなどがいいます。
亡くなった同期の友人の顔を想い浮かべてありし日のこと、学生時代のことなど、時間の経つのも忘れて、おしゃべりをします。
しかし、いつの間にか、他人事のような会話になってしまいがちです。
「死」は人生に「絶対」ということがないといいたいですが、「死」は例外なくこの私においての事実なのです。にもかかわらず、その事実さえも他人事のようにおしゃべりするという有りさまであります。
み仏の教えは、この事実、つまり「ほんとうのこと」をほんとうと、そのままうけとるべきことを教えてくだされるのであります。
この「ほんとう」のことをその通りに、うけとることを聴聞というのであります。
すこし、こまかいことを申しますと、聴聞にも移り変わりといいますか段階があるのです。そこで「聴」というのは自分を中心にして「私が○○をきく」という段階なのです。それに対して「聞」というのは私が聞くのではなく「聞こえてくる」というのです。私が中心ではなく、相手が中心なのです。
榎本栄一さんの詩に次のようなのがありました。
この耳は 不思議な耳で テレビの声は 聞こえにくいが 何万光年の かなたより 人身 受け難し と 聞こえてくる なかなか味がありますよね。テレビの会話の言葉は聞こえにくくなった耳ですが、仏法を聞かせていただくことのできる人間の世界に生まれさせていただいたことは大変な縁であった、そのことを教えてくれた何万光年、昔からの呼びかけでありました、とうけとられています。
まさに「聞」とは「うけとる」ことであり「味わう」ことであります。
「聞けば 聞くほど 聞かずにおれぬ 仏法さま」という念仏者の声が忘れられません。
本願寺出版社(本願寺派)発行『心に響くことば』より転載 ◎ホームページ用に体裁を変更しております。 ◎本文の著作権は作者本人に属しております。