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私はしばしば仏を忘れるが 仏は私を忘れない

提供: Book

私は「仏」について何も知りません。仏教に関する仕事、研究をする人でもないかぎり、特に私の年代ではふれる機会、興味がまったくと言っていいほどありません。普通の生活にかすりもしないのです。だから仏様といっても、想像するのはとても適当な情報のごちゃ混ぜです。ピカピカ光を放って降りてきては願いごとを叶えてくれるような、そんな都合の良いものです。何かきっかけがないかぎり、私のイメージは一生このままだと思います。

 それで、この法語にある仏。この仏は願いごとを叶えてくれそうかというと、何だかそうでもなさそうです。さっきの仏様とは種類が違う気がします。形のイメージははっきり浮かんでこないけれど、金ピカである必要もきっとない。そしてこれも勝手に思ったことなのだけれど結構優しそうだと思う。忘れない、ってことは気にかけてくれているってことで、私としてはうれしいし有難い重要ポイントです。

 私が仏をイメージする時、仏もこっちを向いて私を見ています。私の仏はなぜかいつでも真正面を向いているんです。

 文章は何年たっても変われません。この法語ひとつを山ほどの人が見る。カレンダーになるということは一カ月の間、毎日目にする人もいるのだと思いますが、人の気持ちはコロコロ変わる。一人の人間でも、時間によって、日によって気持ちが、気分が、見る視線がどんどん変わっていきます。そんな状態が何百、何千通りあっても、見られる側のこの法語というのは一つで変わらない。でもここにある仏の目はそれぞれに対応して変化してくれているように思います。一日一日朝昼晩、悲しい時は悲しい私を見る眼、浮かれた時は浮かれた私を見る眼。こちらが仏を見ているようで、鏡で自分の片側を見せられているみたいです。この仏の目は必ず見る人本人の気持ちと連動しています。仏という言葉はただの言葉であって、むこうから投げかけられている視線というのは、実は自分の目を鏡越しに見ているだけのことのように思います。

 仏という言葉を材料に今の自分を見る。仏を思い出す私も、その私を見つめる仏の視線も両方自分自身なのです。

 この仏には金持ちにさせてくださいとお願いしても無駄。だって私自身明日すぐには金持ちになれないからです。金色じゃない、空を飛べない、病気を治せない、金持ちにさせてくれない、けれど最初に書いたイメージより、ずっと近くにいる気がします。それも当たり前、自分の片側なのだから。へんに有難がる必要のない、とても自然なかたちをした仏です。

 私の仏に今何が見えているのかはわかりません。きっと私自身あまりはっきりしていない気持ちでいるからだと思います。いつか仏の視線の色が鮮やかな色を映す時、厳しいものになる時、私が仏を忘れてどこかへ向かう時、どんな場合でもこの言葉は変わらずあるし、それは仏もまた消えることはないということです。いつでも思い出したらいい。安心して、これから進みます。


松井 沙月 1985年生まれ。富山県在住。 フリーター。



東本願寺出版部(大谷派)発行『今日のことば』より転載 ◎ホームページ用に体裁を変更しております。 ◎本文の著作権は作者本人に属しております。