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壮大ないのちの世界 みんなの法話

提供: Book


壮大ないのちの世界
本願寺新報2006(平成18)年11月1日号掲載
三重・浄蓮寺住職 菊地 英司(きくち えいじ)
「命の家郷」お浄土想い

あるお寺で、法話と歌の公演があり、"ご縁"を恵まれ聴聞させていただきました。
ななめ前に座っておられた、九十歳を過ぎたであろう女性の姿が目にとまりました。
その方の後ろ姿には、幾度となくかみしめられた苦悩が映し出されているようでした。

その方の姿勢をマネするようにして、私も聴聞に励みました。
公演の最後には、いのちの「家郷(かきょう)」であるお浄土を想いながら、みんなで「故郷(ふるさと)」が合唱されました。
その時、その方のほほに伝わる幾筋もの涙を垣間見ました。
まぶたを押さえていたハンカチが降ろされて、穏やかな眼差しが私に向けられたとき、私も共にみ救いの中にあると感動し、深く頭(こうべ)を垂(た)れました。

そして次の新聞記事を反芻(はんすう)していました。

「ナチスに抵抗して殺された神学者ホンヘッファーは獄中で、絶望的状況にある人たちには、ただ苦しみを生き抜いたモデルだけが力になると、書いている」(青山玄氏/中日新聞・宗教欄より)

私は、このご高齢の女性のいのち、そしてその苦悩も、私や多くの人々の救いのために今、尊前にあるのだとうなずきました。

「み仏と共に生きる」親鸞聖人のみ教えは、日常生活の中でお浄土からのはたらきを体感する"ご縁"の大切さを示されている、と私は受け取っています。

お浄土からのはたらきとは、阿弥陀仏のお慈悲です。
阿弥陀さまは「無量寿・無量光」とも名のられています。
「量り知ることのできないいのちとひかり」という意味です。
あるご法座でこうお話しましたら、次の句が詠(よ)まれました。

「万緑や葉一枚ごとの恵みかな」

葉一枚とは、私・妻・子ども・彼・彼女...大人も子どもたちも、すべてのいのち一人一人のことです。
み仏の慈悲は、すべてのいのちを「よろこびまもりたまふ」のです。

憎い人にも仏の慈悲が
私のお寺では教育相談を行っています。
思春期に苦悩する若者が多くいます。
世間や家庭で浴びせられる濁りは、彼らの心の中で憎悪と孤独に変わり、恐くて強いものに自分を託そうとします。
世間や家族は、彼らの言動を汚れやトゲと受け取り、関わりを保てず悪循環に陥ります。
彼らは、憎しみを持て余し煩(わずら)います。
私は次のように言います。

「憎んでいいよ。
だが、憎い相手にも、仏の慈悲は注がれる。
これは大切だよ。
憎しみの心のままでも仏の誓いに気づけば、めでたいことだよ」

このことで、憎しみはそのままながら、暴発できなくなります。

同時に、保護者には次の言葉を伝えます。

「医者は、患者の中にある汚いものを大事にします。
出てくる尿や便などを大事に見ます。
子どもの非行は、反抗の印で、苦悩や憎悪を表します。
なぜ盗む。
なぜ嘘(うそ)を言う。
なぜ反抗する。
『なぜ』の中味を掴(つか)んで対処しないと解決しないのです」(斉藤米氏/仙台・青葉女子学園元園長)

上手くやるのは簡単!
在日朝鮮人として日本に生きる青年(趙守氏)が、さまざまな差別と迫害に襲われる生活を綴った手記をくれました。
その一部を紹介します。

「中学校の頃、髪を染めパーマもかけて、学校にも行かない"不良少年"でした。
口数の少ない父からの愛情が感じられず、反発していました。
その父が酩酊(めいてい)して帰ってきた晩のことです。
父が私を呼びつけ、私の頭と顔を撫(な)でて言ったのです。

"いいか守。
上手くやるのは簡単だが、真面目に生きることは難しいんだゾ"と。

普段の父には似つかわしくない言葉が聞こえてきました。
父の若い頃には"こう生きたい"と望んでも不可能だったのです。
自分の子どもたちには"願い通りに生きてほしい"という父の気持ちが伝わってきたとき、私はあふれる涙を抑えられませんでした。
その時、真面目に生きようと決意して、髪を切り、毎日通学して、中学を卒業しました」

父親の言葉を信じる子の姿が彷彿(ほうふつ)させられます。

自らが自身のターミナルケアをされているかのようなご高齢の女性の姿、父から子への心の教育...。

親鸞さまのみ教えはみ仏という壮大ないのちの中の私を自覚させてくださいます。
如来の大悲は"汝こそ輝くひかり"と、すべてのいのちを無条件に認めてくださるのです。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/