落葉せる 太き欅の 幹の前を 62
出典: Book
アララギの歌人、島木赤彦の歌です。眼を患う子を連れて、医者に通う。亭々たる欅の落葉道。その道すがら、後になり、先になりする児と親の語らいがある。 ”この木、おっきいねお父さん””うんこりゃ、欅ってんだ。この欅の葉っぱが、落ちてるだろ。これが落ちて終うたら、寒うなるよ。間ものう冬さ。だからな、暖い中、せっせとお医者に往って、はよ、眼を治そうな”
”お父さん、あと何回、お医者さんに往くの””そう、何回かな。あと二回かな、三回かな。なに、じき治るさ”
まだあどけない子供は、父と一緒にあるけるのが嬉しい。時に駆けだし、時に遅れても、同伴する父と共に子は安らいでおれるし、親も穏やかに心が満ちている。
深川倫雄和上が仰せです。”真宗門徒の老人で、死ぬことを、お迎え、というものがおる。これは、臨終に阿弥陀さまのご来仰を頼みにする余裕の信仰からきたことばで、真宗では言わぬこと”と、お聞かせ下さいます。
『真実信心の行人は、摂取不捨のゆえに、正定聚のくらいに住す。このゆえに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心のさだまるとき、往生さだまるなり』と、今日ただ今、お救いの中なること、親鸞聖人がきっかりお示し下さってあります。
”念仏の衆生、私の命の中味は、さながら阿弥陀さまだらけ。親さまが、今もうご一緒というのに、何を今さら、息の切れ際のお迎え、頼む必要があろう。臨終どころの騒ぎじゃない、今日も明日もナンマンダ仏、ナンマンダ仏の親さまが、ご一緒してお離れでないのです”と、聞かせてくださいます。
藤岡 道夫
