愚かゆえに 弱いからこそ みんなの法話

出典: Book


愚かゆえに 弱いからこそ
本願寺新報2007(平成19)年7月20日号掲載
岐阜聖徳学園大学准教授 河智 義邦(こうち よしくに)
すべての命すくいたい

先日、小学六年生の姪(めい)が録画しておいたテレビドラマを一緒に見た時のことです。
それは、若い獣医師が挫折経験を経験しながらも成長していく姿を描いたものでした。
はじめは、姪が主演のイケメン俳優見たさに録画したものと思っていたのですが、ドラマが進んでいくうちに、いつのまにか私まで見入ってしまいました。

若い獣医師は、実家が大きな動物病院を経営しているにもかかわらず、院長の父親と医療方針が合わず、独自に病院を開業して、自分の考えに基づいた治療や病院経営をしていきます。

父親は、利益優先の経営方針をもっていて、捨て犬が運ばれてきても、懸命にその治療をする息子と衝突し続けます。
息子は、獣医師である以上、どんな状態にある動物も全(すべ)て救いたいという高い理想に燃えて活動します。
時には保健所に運ばれた犬を助けにも行きます(ある統計によると一年間に保健所に運ばれ処分される犬や猫などは三十万匹ともいわれています)。

しかし、どんなに崇高な気持ちがあったとしても、一人の人間の力には限界があります。
さまざまな挫折を経験し、父親が単なる利益優先の獣医師でないことにも気付いていき、自分の未熟さを痛感しながら、その理想に向かって前向きにがんばっていきます。

そんな姿を、少しコミカルさも交えた脚本の力と俳優の演技の巧(うま)さで飽きることのない内容に仕上げていて、見終わったあとに心地よい清涼感が残りました。

心の奥底に理想をもつ
「あらゆるいのちを救いたい」。
しかし、自らできることには限界がある。
でもあきらめることなくその目標に向かって歩んでいく。
大変シンプルなストーリーであるにもかかわらず、私も含めた多くの視聴者が、こうした物語に引きつけられるのはなぜでしょうか。

それは、私たち一人一人の心の奥底に、若い獣医師が抱いていたような理想、願いを有しているからではないでしょうか。
医療行為をして「あらゆるいのちを救う」とまではいかないまでも、「生きとし生きるものが、与えられたいのちを精一杯生きていくことができるならば」「正しく生きていきたい」「自分さえ良ければいいと考える人生は送りたくない」・・・。
私たちは心の奥底に自覚的・無自覚的にそんな気持ちや願いを持っているのではないでしょうか。

しかし、今の現実社会の仕組みの中では、他者との比較や競争なくしては生きてはいけません。
矛盾や不条理、理想や目標とのギャップ、さまざまなことがあります。
そんな私たちの姿を、そのドラマは獣医師の活動を通して、重くなりすぎないようなタッチで映像化していました。
少なくとも、私はそうした視点でドラマを見ていた一人でした。

共感できる他者の苦悩
私たちは、そうした願いを抱くことの大切さ、そして願いを実現するべく生きていくことの大切さを知りながらも、忙しい日々の生活の中で見失いがちです。
厳しい競争の現実を生きながらも、忘れてはならない大事な考え方、生き方がある。
それを思い起こしてくれるものが阿弥陀さまの「本願」であろうと思います。

人間がもつべき本当の願い、心の奥底で抱いている根本の願い、そんな願いを普遍的に表現されたものが、弥陀の本願の世界ではないかと思います。

私たちの慈悲や愛には限界があります。
凡夫(ぼんぷ)といわれるゆえんです。
しかし、凡夫だからこそ、自己の愚かさや弱さがわかり、それだからこそ、他者の苦悩や痛みに共感していくことができるのだと思います。

私のこの話は『歎異抄』第四条を念頭において感じたことでもあります。
親鸞聖人は、人間の慈悲には限界があるが、阿弥陀さまの大慈悲は「すえとおりたる」無限のお慈悲だとおっしゃいました。

しかし、それは私たち凡夫の慈悲の放棄を意味したものとは思いません。
生涯を本願に導かれ続けながら、損得勘定を抜きにして、他者のために今できることを考え行っていくことの大切さが、そこに語られていると味わっています。

若い獣医師の姿に、そんなことを重ねて見ていました。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/