操作

弥陀成仏のこのかたは みんなの法話

提供: Book


弥陀成仏のこのかたは
本願寺新報2001(平成13)年7月1日号掲載
岩見 紀明(いわみ きめい)(布教使)
必要ない理屈や解説

え.秋元裕美子
ことしは、五月に三十度を超すという、北陸では考えられない日がありました。
地球の温暖化をひしひしと感じています。
ところで、真夏の酷暑の頃になると、いつも思い出す俳句(うた)があります。

<pclass="cap2">涼しやな弥陀成仏のこのかたは

小林一茶の句です。
一茶の句には理屈がありません。
頭の中で表現の語句選びをしたり、書いたり消したりの創作の跡が、あまり見当たりません。
自分の思いを伝える工夫をするのではなく、自分の頭に自然に浮かんできたものを飾りけなく流れるままに言葉にするような流暢さがあります。
ですから、この句についてへたな理屈や解説の必要はないような気がします。
しかし、この句を生み出した情況を考えてみますと、多分お晨朝のおつとめのあと、すらすらと頭に浮かんだままをしたためたものと思われます。
一茶は毎日の勤行を怠らなかったようです。

一茶は父・弥五兵衛さんの死後、財産相続を弟と争った結果、蔵とお仏壇をゆずりうけています。
そのお仏壇の前で、朝夕お正信偈のおつとめをかかさずされていたようであります。

<pclass="cap2">弥陀成仏のこのかたは
いまに十劫(じっこう)をへたまへり
法身(ほっしん)の光輪きはもなく
世(せ)の盲冥(もうみょう)をてらすなり

と声に出し、節をつけて唱えるとき、日夜、煩悩に燃え苦悩する自分から解放されたのではないかと思われます。

弥陀同体のあぐら
ところで、仏教に「清涼地(しょうりょうち)という言葉があります。
いうまでもなく、さとりの境地を表現した言葉です。

印度の夏は四十度を超す日が、くる日もくる日も続きます。
厳しい日差しの酷暑に汗がにじみ出るとき、木陰に休んで涼をとると、さわやかな涼風が吹いて汗ばむ肌にふれ、なんともいえぬさわやかな心地になります。
このような経験が、さとりの世界とはこんなさわやかさだろうというところから、清涼地(すずしいところ)という単語を生みだしたのでしょう。

一茶が「涼しやな」と表現したのは、さわやかな信心の世界を述べているのです。

また一茶には、次のような句があります。

<pclass="cap2">涼しさに弥陀同体のあぐらかな

この句は、よほど仏法の聴聞を重ねた方でないと詠(よ)めない俳句だと思います。

夏の夕方、縁側であぐらして涼んでいる自分の姿と、仏さまの座像とを、もったいなくもダブらせて「弥陀同体のあぐら」と表現しているようです。

浄土真宗に「仏凡一体(ぶつぼんいったい)」という安心をあらわす論題があります。
この論題では、信心を如来さまからいただいたというのなら、その信心の体(本質・本体)は、凡夫の心なのか、仏の心なのか、凡夫の心ならば如来さまからいただいたとはいえないのではないか、仏の心であるというのなら、仏の心だけが浄土に生まれて、凡夫の凡心は往生せぬのではないかという疑問に答えて、浄土に生まれさせていただくのは、凡夫の心中に、如来さまのお名号が届き、私たちの信心となってくださった仏心と、凡夫の私の心である凡心とが一体となって浄土に生まれ、仏のさとりをえさせていただくのだということを明らかにしています。

一茶は、夕涼みのひと時、お説教で聴聞させていただいた「仏凡一体」の言葉を思いだして「弥陀同体のあぐら」と詠んだものと思います。

本当に心安らぐ時
私たち浄土真宗の御同行の各家庭のお仏間は、阿弥陀さまを拝ませていただく場所です。

阿弥陀さまのご尊前に座らせていただき、阿弥陀さまのご尊顔を拝ませていただきますと、阿弥陀さまは、私の心の深奥を見通され、わが身の思い通りにならなくて腹立っているときは、悲しみにみちたお顔でお諭しくださり、また私が間違いでも犯しそうなとき、慟哭(どうこく)されるような面持ちでご覧くださっているのです。

またあるときは、私のすべてをお許しくださる慈母のようなやさしさで私をつつみこんでいてくださるのです。

苦悩多い人生を歩んだ一茶にとって、唯一、お仏間の勤行のひと時が、本当に心安らぐ時間であったと思われます。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/