子の一瞬 親の永遠 みんなの法話
出典: Book
子の一瞬 親の永遠
本願寺新報2006(平成18)年8月20日号掲載
龍谷大学非常勤講師 弘中 満雄(ひろなか まんゆう)
押入れに私の全てが
「お母さん、僕の子どもの頃の写真、どこにしまってある」
結婚式を間近に控えて、披露宴に使う写真を探しに自宅に帰った私は、母にこう尋ねました。
「奥の押し入れ」と教えられて開けたその中には、「満雄」と書かれたぶ厚いアルバムが、全部で八冊、番号をうって整然と並んでいました。
私は、披露宴に使う写真を十枚程度選ぶ作業はそれほど時間もかからないだろうと考えながら、意外と重たいアルバムを番号順に押入れから引っ張り出しました。
けれども、私の知らないところで母が作っていたアルバムは、結局、全(すべ)てを見るのに半日近くもかかってしまいました。
それは生まれて初めて自分の写真を真剣に見入った時間でもありました。
母と一緒に写っている写真。
兄弟三人で遊んでいる写真。
泣いている写真。
笑っている写真。
身に覚えのある写真や、全く記憶がない写真などなど...。
大げさに言えば、そこには、これまでの私の全ての姿がありました。
これだけの写真を整理してくれていた母に対して、素直に頭が下がりました。
そしてまた同時に父に対しても。
あの時間が一番楽しい
アルバムには全くといっていいほど父が写っていませんでした。
なぜなら、これらの写真をずっと撮ってくれていたのが父だったのでした。
じっとシャッターチャンスを待って構えている父の姿が目に浮かびました。
やっと写真を選び終えてアルバムを元に戻しながら、その時ふっと思い浮かんだ言葉がありました。
それはあるカメラ会社の広告のコピーです。
「あなたの一瞬は、ママには永遠です」
ビデオカメラを持った母親役の黒木瞳さんが、わが娘を写している背景に載っていた言葉です。
子どものどんなわずかな瞬間も見逃したくないという思いや、「いつもあなたを見てますよ」という親心を表現したものです。
とても印象的な言葉でした。
八冊の私のアルバムからも、そんな両親の声が聞こえてくるような気がしました。
居間に戻って母に、「あんなにたくさんのアルバムがあるとは思わんかった。
あれだけの写真の整理は面倒じゃったろう」と声をかけると、
「あの時間が一番楽しかった」
と笑っていました。
かけがえのない一人子
親鸞聖人は、阿弥陀如来は大悲の親となり、私たち迷える凡夫を救うために「一子(いっし)(かけがえのないひとり子)」と呼びかけられると示されます。
その「阿弥陀」という名は、「無量寿・無量光」という意味です。
正信偈の冒頭にも、
「帰命無量寿如来(きみょうむりょうじゅにょらい)、南無不可思議光(なもふかしぎこう)(無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる)」(註釈版聖典203ページ)とあります。
自らを「無量寿・無量光」、すなわち「寿(いのち)に限りがない・光に限りがない」と名告(なの)られたのは、何故でしょうか。
それは、阿弥陀如来がこの私に対して「永遠なる」ものであることを伝えるためです。
私たちは毎日、喜怒哀楽に満ちた変化のめまぐるしい生活をしながら、一生を過ごしていきます。
そして種々さまざまに起きる出来事に対して、この凡夫の私は、自分の都合に合うように、すぐにどんなものにも変わってしまう存在です。
如来さまは、その私がどのような状態にあっても、永遠に変わることなく、「いつでも・どこでも」、凡夫の私を必ず救うという真実の親となってくださいました。
そして、私の常日頃の一瞬一瞬に向かって限りない慈しみの光を照らしてくださいます。
押入れの前でアルバムに見入ったあの日からもう半年以上の月日が流れました。
先日、おかげさまで子どもが恵まれるとわかりました。
生まれる前から親ばかと言われそうですが、妻のお腹に向かって「あえるのを楽しみに待ってるよ」と、心の中で声をかけずにおられません。
同じように阿弥陀さまも、私が気付くより前から私に「ここに親がいるよ」と見まもりおよびかけくださっているのです。
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出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。 |
