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合掌するこころ みんなの法話

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合掌するこころ
本願寺新報2001(平成13)年4月20日号掲載
秦 宣昭(はた せんしょう)(奈良・照光寺衆徒)
特定の宗教の強制?

え.秋元裕美子
 以前、浄土真宗が盛んな地方の小学校で合掌してから給食を食べることは特定の宗教の強制であるからやめるべきだ、という新聞記事が出たことがあります。
この記事を読んだ時、どうして手を合わせてから食事することが特定の宗教を強制していることになるのか、よくわかりませんでした。

手を合わせることは、子どもであれ大人であれ日常的な場面で目にする普通のことです。
手を合わせているからといって、その人自身が特定のことに凝り固まっているようなことはないでしょう。
その人自身、あなたが今やっていることは特定の宗教行為だからともし言われたとしたら、とまどってしまうのではないでしょうか。
いろんな意味で、難しい世の中になったものだなと少々驚いたことでした。

合掌しているこころもちは、生あるもののいのちをいただくことに対して手を合わせて感謝する気持ち、自分の糧となってくれるものに対して有り難いと思うこと、そのような思いが手を合わせるという行為の中に含まれていると思うのです。
今そのような気持ちを持つことさえ、ましてや言葉で表現しようものなら、変な人と言われてしまうような世の中になっています。
大切なもの、失ってはいけないぎりぎりの支柱までもが失われそうになっているようです。

合掌することが仮に特定の宗教行為であるとしてそれをやめるならば、合掌していただきます、と私たちが育んできたこころの代わりとなるような規範を示しておく必要があるでしょう。
それなしにただ止めてしまえということで止めてしまうならば、育(はぐく)みは何によって確立していくのであろうかと不安を覚えるのです。
たかが食事の作法でそれほどもと言われるかもしれないのですが、そのことですらもないがしろになっているのではと思うのです。

中には、私は菜食主義者で肉など食べないしなぜ手を合わせてから食事しなければならないのかいぶかる方もおいでになるかもしれませんが、植物にいのちはないのでしょうか。
植物も動物同様成長します。
ならばいのちあるものではないのでしょうか。
それを植物は動物のように生きてはいないのでと考えることは、人間の分別心の傲慢さのあらわれといえないでしょうか。
もののいのちをいただいているという点が抜け落ちているのではないでしょうか。
私たちの先輩方は、もののいのちをいただいていることを深いところで受け止め、当然のたしなみとして手を合わせることを受けとっていかれたのでしょう。

仏を憶(おも)う自然な行い
先ほど手を合わせてから食事をいただく習慣がすたれてきているのではといったのは、このような社会習慣がはては仏さまに手を合わせるということに対しても同様になってこないのかと心配だからです。
食事の前、仏さまの前に座った時には合掌する等々、このような習慣付けがあるならば理由付けは後からでも充分ではないでしょうか。
先ほどのようなことをしっかりと諭していけば、子どものこころの中には行為とその意味が根付いていきます。

ちなみに私の子どもが通学している小学校では「いただきます」と合掌して食事をいただいているようで、親としては少しは安心しています。

もちろん浄土真宗にご縁をいただかれている方にとって、合掌することはご本尊に対する恭順であり、この娑婆世界にあらわれてくださった阿弥陀如来さまを憶うと思わず手が合わさるということでしょう。
仏さまの世界は悟りの世界です。
仏さまと仏さまの知見の世界で、私たちはその境界に生きているわけではありません。
怒り、腹立ち、嫉(そね)みのある世界に生きています。
そのような私たちができることは、悟りの世界から阿弥陀仏としてかたちを示されて救いの名を示してくださったことに対して、仏さまを讃嘆し敬信していくことでしょう。
その時には思わずに手が合わさることが自然の行いといえるでしょう。

 

背中が語る生き様
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏...」と農作業で曲がった背中をさらに曲げ、農作業で荒れた手を合わせお念仏を称(とな)えていたお同行のおばあさんのしわくちゃな顔が、先ほどの思いと同時に頭の中に浮かんできます。
そこには理屈で納得できる世界ではなく、念仏者はこうあるべきだよと示してくださる生きざまが、その背中を通して物語っています。
そのままの生活の中で「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏...」とお念仏を称えている姿がとうといのです。

時々、私は凡夫でございましてと凡夫であることをことさら強く表に出して、何事においても凡夫であることを理由付けに使っている方がいらっしゃいますが、仏さまのお心にかなっているといえるでしょうか。
仏さまを憶う深い心が抜け落ちてしまえば、それは単なる偽り心にすぎなくなります。
凡夫であることと仏さまを憶うこころを、手を合わせている中でいただいていきたいものです。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/