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九十 泥華一味 「浅原 才市」

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法悦百景 深川倫雄和上

八十一 行動の人 「足利 源左」
八十二 案ずるな 「浅原 才市」
八十三 仏恩深重 「親鸞聖人」
八十四 触光柔軟 「萬行寺 恒順」
八十五 おぼえている 「九条 武子」
八十六 自宗の安心 「満福寺 南渓」
八十七 忘れはてて 「親鸞聖人」
八十八 おぼつかない足 「九条 武子」
八十九 真の仏弟子 「善導大師」
九十 泥華一味 「浅原 才市」
九十一 睡眠章 「蓮如上人」
九十二 よろこびすでに近づけり 「覚信房」
九十三 表現の背後 「蓮如上人」
九十四 鍛えられざる精神 「無量寿経」
九十五 愚者の宗教 「鈴木 大拙」
九十六 念仏は感謝 「親鸞聖人」
九十七 冥から冥へ 「無量寿経」
九十八 今日の生 「九条 武子」
九十九 絶対絶命 「尾崎 秀実」
百 百代の過客 「松尾 芭蕉」
ウィキポータル 法悦百景

あさましと ねんぶつは をないどしの
なむあみだぶつ
あさましのが まいらせてもらう
あさましのを どけりや こころなし
あさましのが まいらせてもらう
                (浅原 才市)

 浅原才市は昭和八年、八十三才で死んだ。才市のうたをたくさん読んでゆくと、よくもこんなになったと思う。教育はない、名声もない。実のところ、真宗はわかりにくい。それを歩み進んだのである。真宗が人生生活に役に立たねばならぬという前提があってはこうならぬ。浅ましいと念仏は同じ年令である。如来があって、私が救われるのではない。むしろ私があって如来がある。如来によって、あさましい、が知れるのではない。浅ましいを知って、如来となった。浅ましいと如来は、はなれない。  如来はどこに在るか。如来は称名に出(い)でたもう。念仏である。浅ましい念仏は、同居せる友人である。同処に在る。

 才市の心は浅ましで一杯である。浅ましをのけて、才市はない。浅ましがなくなって目的をとげるのではない。浅ましは、業報であって、なくならぬ。今の業報は、次の業因である。どうあっても地獄はまぬがれぬ。だから救われねばならぬ。だから救わずばおかぬ、と本願が立てられた。浅ましいてよかった。浅ましくてよかった、と発言する才市が、最も浅ましさを知っている。

(昭和四十三年四月)