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三種の愛心 みんなの法話

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三種の愛心
本願寺新報2001(平成13)年5月1日号掲載
田村 浩州(たむら こうしゅう)(福岡・西方寺住職)
亡くなる10日前

え.秋元裕美子
今年の二月、火葬場で母の遺体にすがりつき泣きくずれる二十三歳の女性の姿を見たときに、十年前の自分の姿を思い出しました。
私の父は、平成三年八月二十一日、六十歳でお浄土に往生しました。
その時の思いが、忘れかけていた思いが蘇(よみがえ)りました。

「どうして人間は死ぬのだろう。
なぜ生れて来たのだろう」―私たちは死を知っている。
しかし、自己の死は知らない。
知らなければ訪れないか?

いやそんなことはない、必ず訪れる。
「死は未経験の出来事である」と何かの本で読んだことがありますが、未経験であろうと逃れることは出来ません。
そのことを思い知らされたのが、父の死でした。

 亡くなる十日前、父は病院のベッドの上で私に『往生要集』に説く臨終際の「三種の愛心」の話をしてくれました。

人間は必ずこの心をもっていて、追い詰められるとその心がもっと表に出てきます。
その三種の愛心とは、自体愛・境界愛・当生愛、この三つの愛着心をいいます。

父は「自体愛とは、口では表せないほど自分がかわいいということだ。
よくテレビドラマなどを見ていたら、我が子の死を前にして出来ることなら代わってあげたいと言うシーンがあるが、あれは出来ないから言うことだ。
もしも本当に代われるなら全(すべ)ての人とはいわないが、ほとんどの人は言わなくなるだろう。
そこで親が子どもに対して代わってあげたいと思うのは美しい世界だ。
でもお父さんは、お前にこの病気を代わってほしい。
お前を犠牲にしても生きていたい。
それほどにドロドロした心を自体愛と言うのだ」と。

私自身、このことを考えると、父の死は大変大きな影響を与えてくれました。
父の死で涙が枯れるという事実も知りました。
泣き声は出ても涙が出ない。
しかし、しばらくするとまた涙がこぼれる。
不思議な感じでした。

それと、もうひとつ知らされたのは、私は自分自身が一番かわいいのだということでした。
それは、父の病が進行していく姿を見て、早く元気になってほしいと願う裏に、早く治ってくれないと「私が苦労するじゃないか」と思う心に気づいたことでした。
私が辛い、私が悲しい、私が困る、私・私・私...中心は我執に溺(おぼ)れた私でした。

おばあちゃんを頼む
次に「境界愛とは、夫から見れば妻、妻から見れば夫、さらに両親、子ども、親戚、友人などさまざまな人たちに思いが残る。
いや、引っ張られると言う方がいいかもしれない。
しかし、それだけに限らない。
地位・名誉・財産・家・車・洋服などいろいろなものから引っ張られる。
それを境界愛というのだ」と。

今、もし自分に死が迫り来れば、やり残したこと、やりたいことがたくさんあります。
私はその時、何に思いが残るのでしょう。
自分自身に問いかけてみても答えは出てきません。

父は、祖母に思いが残ったようです。
それは最後の最後まで私の手をとり、「おばあちゃんをたのむぞ。
おばあちゃんには機嫌とる必要もない。
何かを買ってあげる必要もない。
ただ一つだけ、一日一度でいい『おばあちゃん』と声をかけてくれ」と何度も何度も繰り返したことを思えば、祖母への思いが引っ張ったに違いありません。

ただ念仏する
最後は当生愛。
「我々、浄土真宗の他力の念仏を喜ぶものは、阿弥陀さまの大慈悲の中で生かされ、命終えた後はお浄土へ参らせていただくことが最高の幸せであるはずなのに、出来ることならもう一度この人間界に生れてきたいと思う。
その心を当生愛と言うのだ」と話してくれました。

しかし、この当生愛の意味は、未来に善い所に生れたいという愛心であります。
父はこの人間界に愛着があったのでしょう。
私は、このことを聞いたとき、『歎異抄』第九章の親鸞さまのお言葉が浮かびました。

「久遠劫(くおんごう)よりいままで流転(るてん)せる苦悩の旧里(きゅうり)はすてがたく、いまだ生れざる安養(あんにょう)浄土はこひしからず候ふ」(註釈版聖典837頁)

皆さんはいかがでしょうか? 私はこの世界が大好きです。
苦しみ、悲しみ、涙して、それでも少しは楽しみのあるこの世界は捨てがたいものです。
これを凡情というのでしょう。

しかし、そんなことはおかまいなしに、私の上に死は訪れます。
三種の愛心を振り捨てていかねばならない...。
「大丈夫か?」と我が心に尋ねてみると......大丈夫ではない自分がいつもそこにいます。
そんなとき、いつも梅原真隆和上の言葉を思い出します。

「死ぬもよし 生きるもまたよし 生死の峠に立ちてただ念仏する」

南無阿弥陀仏の如来さまは、その不安だらけで苦悩する私の姿を、先手かけて見抜いたうえで「往生の一大事はお前が努力し解決するのじゃない。
この弥陀が努力し決定しているのだから、心配するな、安心せよ」と、私の口をついて出てくださり、喚(よ)びつづけてくださるのです。
お慈悲につつまれ、お浄土があることに支えられ、強く明るく生き抜きたいものです。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/