ちりを払い あかを除く みんなの法話

出典: Book


ちりを払い あかを除く
本願寺新報2007(平成19)年12月20日号掲載
福岡・偏照寺住職 藤崎 功良(ふじさき こうりょう)
※偏の二ンベンは正しくはギョウニンベン
12月20日はおすす払い

12月20日、本願寺では「御煤払(おすすはらい)」という、お堂の大掃除が行われます。
室町時代の後期、蓮如上人の時代にはすでに行われていたようです。

お晨朝(じんちょう)のおつとめの余韻の残る堂内で準備が始まると、僧侶や門信徒が外陣(げじん)で待機します。
静けさの中、大きなわらじ(鯨魚(げぎょ)=巻わらで作られた長さ40センチほどの草履(ぞうり))を履(は)かれたご門主が、右余間から阿弥陀堂内陣(あみだどうないじん)へと進まれ、正面で合掌礼拝の後、長さ4メートルにわたる「お煤ほうき」でお宮殿(くうでん)を払われ、続いて、仮御影堂内陣(かりごえいどうないじん)へと進まれます。
正面で同様にお厨子(ずし)を払われると、外陣で一斉に煤払いが始まります。

僧侶や門信徒が古式にならい、1メートルほどの竹の棒(通称「たたき棒」)で、横一列に並び畳を連打しながら進み、後ろから大きなうちわで、叩(たた)き出された煤を送り、ほうきで掃き出し、お堂にたまった1年間のほこりなどを払います。

今年も残すところあとわずかとなりましたが、みなさんのお家でも、暮れの大掃除をされる頃でしょう。


おそうじは作務の代表
禅宗などの僧侶の日頃の行として、昔から、一 作務(さむ)、二 勤行(ごんぎょう)、三 学問と言われてきました。
まず、一番が作務です。
作務とは、掃除や片付け、庭の草取りや、昔ですと薪(まき)を割ったり風呂をたいたりなど、要するに体に汗して働く作業です。
その中でも作務の代表は掃除です。

「なんだそんなこと」と、おろそかにされがちな掃除などが、実は心を磨くのに大変重要なのだということを教えるために、作務は僧侶のつとめの第一番になっているのです。

お釈迦さまのお弟子に、ある兄弟がいました。
兄のマハーパンタカはお経の勉強もよくできましたが、弟のチューダパンタカは、お経の短い句を、なかなか覚えられません。
そこでお釈迦さまはチューダに「あなたはお経の勉強はいいから掃除をやりなさい。
目についたところをみんなきれいにしなさい」と言われ、チューダに掃除用具と「塵(ちり)を払い、垢(あか)を除く」という短い言葉を与えられました。

そんな短い言葉ひとつをすぐ忘れるほどのチューダですが、お釈迦さまの言われるとおりに、その日から箒(ほうき)と塵取(ちりと)りを持って「塵を払い、垢を除く」と、その言葉をひとつ覚えに、そこら中を掃除して回りました。

人が汚したものでも何でも、汚れを待っているかのようにきれいにして回ったのです。
そうしているうちに人の心の垢を除くことの大切さを知り、やがてさとりを開きました。

無明照らす智慧の光明
<pclass="cap2">智慧(ちえ)の光明はかりなし
有量(うりょう)の諸相(しょそう)ことごとく
光暁(こうきょう)かぶらぬものはなし
真実明(みょう)に帰命(きみょう)せよ
(註釈版聖典557ページ)

<pclass="center">◇

この間、掃除をしている時、長女の幼い時の写真が出てきました。

「こんな時があったんだなー」となつかしく思ったと同時に、その頃は「健やかに育ってくれれば、あとは何も・・・」と思っていたのに。
今はどうだろうかとふと思いました。

「今日は学校どうだった?勉強がんばってるか?」など、子どもに親の思いを押し付けてばかりしているなと感じました。

掃除の時に出てきた「一枚の写真」から、今の私の心の中を知らされました。
私も子どもも自分に出来る範囲が見えず、必要以上に「がんばる」ようになってはいないでしょうか。
今の自分の「あるがまま」の姿に気付くことが大切ではないかと思いました。

阿弥陀さまの限りない智慧の光明は、全(すべ)てのものを分けへだてなく照らしているのです。

光に遇(あ)って今まで見えなかったものが見えたように、阿弥陀さまの光に照らされて私の無明の心の煩悩や自己中心的な分別に気付かせていただきます。

それらを断ち切ることはできない「私」を阿弥陀さまは、最初からこのような「私」だと見抜いて、救わずにおれないと、今ここではたらいてくださっているのです。

「あるがまま」の「私」に「いつでも、あなたと一緒だよ」とよび続けてくださっているのです。
そのご恩にただ、おかげさま・感謝のお念仏を申させていただくばかりです。



 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/