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しんらんさま みんなの法話

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しんらんさま
本願寺新報2001(平成13)年12月20日号掲載門中 浄光(もんなか じょうこう)布教使(兵庫)〝知る〟ということえ.秋元裕美子年明け九日から、親鸞聖人のご命日・十六日まで、本山でご正忌報恩講がおつとめになります。
報恩講をお迎えするにあたって、みなさん、親鸞さまのことをよく知っておられますか。
私自身、今もなお、親鸞さまを追い求めています。
まず、知る、とはどういうことでしょう。
お米を見て知っているというのと、お米の味を知っている、また、お米の穂が実るまでのすべてを知っているというのでは大きな違いがあります。
そのように、親鸞さまを深く知るということについて、私は三つのことが言えると思います。
</p>一つに、時の権力、また財欲や名誉欲に屈することなく、純粋に仏教を見つめ、南無阿弥陀仏のみ教えを心の大黒柱にし、大いなる願いに生きぬくことを自ら実践された人であること。
</p>二つに、学問にたけ、経典の心をより深く読みとられ、一生涯を費やし、仏さまのみ教えを事細かに学究され、依りどころとなる要(かなめ)をお書物『顕浄土真実教行信証文類』(教行信証)にまとめあげられたこと。
このご苦労はひと口に一生涯と書きましたが、自らの命そのものを支えているものの真実性を証明せずにいられない、ただそれだけで一生涯、墨を引いては書き、墨を引いては書きのご一生です。
</p>三つに、自ら肉食妻帯し、苦悩の人々と共に乱世を生きぬかれ、人間として生きる苦しみ、慈しみ、ぬくもり、喜びを体感された人、それが親鸞さまです。
そして、その親鸞さまを支えた教えが真の仏教です。
</p>心の闇を知らされ仏教を開き、お説きになられたお釈迦さまは、苦悩に満ち満ちた十方衆生を救済する仏さまとして、阿弥陀如来さまをおすすめになられました。
十方衆生とは、四方八方に上下を加えて十方といい、衆生とは、生きとし生けるもの全てをいいます。
すなわち、この世でもれるものがない、この世でもらすことのない勝(すぐ)れた救済を成就された仏さまなのです。
</p>親鸞さまは、阿弥陀さまからたまわる「信心」一つが、仏さまとならせていただくお救いのたねであるとお説き下さいます。
「信心」といいましても、自らがつくる信心ではなく、阿弥陀さまからいただく「信心」であり、疑いやはからいがとりのぞかれた心であり、本当のいのちに帰らせて下さるお心です。
</p>では、阿弥陀さまの救済の目的となるものはといいますと、ここにいる一人ひとりであり、私が、そしてあなたが主役なのです。
阿弥陀さまによくよく見ぬかれますと、私の心はまるでブラックホール。
全くの闇です。
私利私欲にかられ、苦しみの原因を人に転嫁したり、人を踏みつけにしたりして生きていました。
気が付かないうちに、自分のいのちも他人のいのちも踏みにじっているのです。
それは開かれた世界ではなく、閉ざされた暗く恐ろしい世界でした。
自分さえよければいいと思う心が、数多くの人々を苦しめていました。
互いが互いの首を絞め合う地獄の世界でした。
</p>私自身苦しみました。
どうすれば、親鸞さまのように生きてゆけるのでしょうか。
どうすれば、どうすれば...。
とその時、となりにいた子どもが大声で言いました。
</p>「お母さん、ぼくルフィになりたい(ルフィとはアニメ・ワンピースの主人公)」</p>あまりの大声にビクッ。
</p>「お母さん、お母さん、明日、スーパーに連れて行って。
ぼくクレヨンがほしい。
クレヨン買ってきたら、ルフィの絵、何枚も何枚も描くんだ」</p>私は心打ち震えました。
目の前が明るくなりました。
私は大声で言いました。
</p>「明日、クレヨン買いに行こう」</p>子どもはとてもうれしそうでした。
朝一番にクレヨンを買いに行きました。
十八色のクレヨンでした。
</p>私にも、親鸞さまが描けるでしょうか。
私に親鸞さまが描けるでしょうか。
今も私は追い求めています。
人生という大きなキャンパスに自然にのびのびと描き続けられるまで―。
</p>人間に光りと熱を親鸞さまの歩まれた道は、自らも救われ、今までも数多くの人々が救われ、これからも数知れぬ人々が救われる道です。
苦悩に沈む人々を救済し、共に生き、喜び、悲しみ、慈しむ道です。
それはまた、人間に光と熱をもたらすおはたらきです。
主役は皆一人ひとりであって、他人ごとにできない世界なのです。
親鸞さまをお慕いする心は、そのお人柄を通し、私自身の無明(むみょう)(煩悩・闇)に気付かせていただき、一度ならず、幾重にもそのお育てにあずかり、恩徳の広大さを知らされる世界です。
</p>報恩講の意義を問い直そうとするとき、その場に私自身がいて、無関係でいられない私にしあげて下さったご恩を喜ばずにはいられないのです。
親鸞さまの「信心」と私の「信心」が同じである、といえるのは、「南無阿弥陀仏」の光の如来さまが、常に私の心の闇を目当てにはたらきづめにはたらいて下さるがゆえに、同じであると喜ばせていただけるのです。
親鸞さまのお喜びになられた「信心」の深きことが、いよいよしのばれる年の瀬です。


 出典:「本願寺ホームページ」から転載しました。
http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/howa/