きまじめに 勤めあげたる 四十年 65

出典: Book


毎日新聞歌壇に寄せられた歌です。謹直に職場の仕事をこなす気質では、家庭でも、きまじめな夫であり、父でありましょう。

競輪、マージャンなどの、賭ごとは勿論やれぬ。タバコの害が叫ばれれば、いちはやく健康に悪いと、これもキッチリやめる。ともかく、仕事が趣味のように、誠実に勤めあげて四十年。あとに一体、なにが残ったのだろう。

体力の衰えがある。のど元まできているのに、物事の記憶が形をなさぬもどかしさに、老いのかげりを覚える。平均寿命までの歳月を思えば、大きな計画もなりません。気力や、意欲のちぢむ、命の実状がある。実直・誠実な人生を過して、そして挙句空しく命終りに向うのか。

三界の衆生の、虚妄の相を知るによって、弥陀は真実の慈悲を生ずと、聞きます。生死流転(まよい)の命の相を、譬えをもって示されます。尺取虫が、物の縁をたどりめぐって、とめどもありません。また、絹糸を取るあのカイコは、自分で吐き出す糸でもって、自らの体を閉じこめ、縛ってしまう。まことに輪転きわまりもなく、とめどもない虚しき命の実状です。

この実状に居たたまれずして、如来さまは、もう空しくは終らせぬ。きっと生死流転(まよい)の命を止めると、的をしぼって、お慈悲の功徳をナンマンダ仏となし遂げられました。

深川倫雄和上のある日の仰せに”野球の名投手の球は、キャッチャーのミットに、狙い通りに納まる。弥陀願力の名号は、狙いをつけた私の命に、ナンマンダ仏と納まるように、仕上げられました”と、お聞かせです。そしてここを、ご開山さまが”本願力にあいぬれば、空しく過ぐる人ぞなき”と、仰せ下さいました。


藤岡 道夫